C
O L U M N


いわゆる「ら抜き言葉」について









































































































 さて、皆さんは「ら抜き言葉」というのをご存知ですよね。「見られる」「食べられる」とは言わずに、「ら」を抜いて言うあれです。見れる、起きれる、着れる、食べれる . . .
 え? いつも使ってるって? ああ、あなたもそうなのですか。実は、私も学生の頃はよく使っていました。この仕事(日本語教師)についてからは、意識して使わないようにしていたため、いつのまにか使わなくなってしまいましたが . . . そうなるとおかしなもので、今度は、昔は平気で使っていたはずの「ら抜き言葉」が、妙に気になるのです。この間のことですが、母(60才過ぎ)が「食べれる」と言っているのを聞いた時にゃあ、正直言って驚きました。たしか、母は、「可能」の意味の時でも「食べれる」じゃなくて「食べられる」と言っていたはずなんですが . . . これは、きっとテレビか何かの影響に違いない!

 「食べられる」は、受け身・尊敬・可能の意味・用法で使われますが、「食べれる」と「ら抜き」になるのは可能表現の場合だけですね。

 ここで、動詞を用いた「可能表現」について見てみますと、

1)「(動詞の辞書形)ことができる」を使う。

 例:読むことができる。
   見ることができる。
   食べることができる。
   来ることができる。
  (することができる?)

   「する」(不規則動詞)は「(〜が)できる」となる。

2)「読める」「話せる」など、五段動詞の場合は可能動詞を用いる。

  終止形/辞書形(辞書の見出しに使われる形)からだと、
 
 - u → - eru となる。この言い方は、江戸時代から使われてきた
  とのこと。

  読む → 読める
  
yomu → yomeru
  話す → 話せる
  
hanasu → hanaseru   

3)五段動詞の未然形/「ない」形の「ない」語幹に助動詞「れる」
  を付けて可能の意味を表わす。この可能形は、受身形・尊敬形と
  同形となる。ただし、このやり方は最近では(特に話し言葉では)
  あまり用いられないように思われます。 

  読む → 読ま + れる(読まれる) 
  例:この本、むずかしくて、僕には読まれないよ。 
  帰る → 帰ら + れる(帰られる)
  例:あ、終電なくなっちゃった。家に帰られないや。

  *ちょっと気持ちの悪い言い方になってしまいますね。
   舌ももつれそうで . . .


  ただし、「行く」の場合は、「行かれる」が可能動詞と同様、
  よく使われるようです。

  例:ごめん。来週のコンパに行かれなくなっちゃった。

4)一段活用の動詞と動詞「来る」(不規則活用)の場合は、
  未然形に助動詞「られる」を付ける。この可能形は、受身形
  および尊敬形と同形。

  見る → 見 + られる(見られる)
  食べる → 食べ + られる(食べられる)


  そして、実は「ら抜き言葉」は、この一段動詞による可能表現を
  五段動詞のようにする(可能動詞)ために起こると言われている
  のです。
  見る → 見れる 
miru mireru
  食べる → 食べれる 
taberu tabereru
           
(五段動詞における可能動詞のよう)

  また、これは、可能の意味と、受け身・尊敬の意味を区別しようと
  する意識のあらわれであるとも言われています。
  地域によっては、古くよりこの使い分けが明確になされてきた
  所もあるとのことで、「ら抜き言葉」を単に言葉の乱れである
  とする意見には異論もあるようです。

  ちなみに、不規則動詞の「来る」の場合は、

  来る(くる) → 来られる(こられる)
  来る(くる) → 来れる(これる)<ら抜き>

  となり、単純に
kuru → kureru とはいかないので、
  五段動詞のようにしたのだとは簡単に説明することが
  できません。これは、単に発音を簡略化するために「こられる」
  から「ら」を抜いただけなのか? あるいは、両方の要素がある
  ためなのか?


97/11/16By Hajime

 
 「ら抜き言葉」その2

  
  
一段動詞と不規則動詞を「可能」の意味で用いる際に「ら抜き」
  となる地域は全国的に広く分布しているとのことです。地域に
  よっては「ら有り」の方が存在していないため、共通語において
  行われる「ら有り」の言い方がむしろ不自然で美しくなく感じら
  れる場合もあるようです。なお、五段動詞における「可能動詞」
  ですが、これは近世の江戸語に発生した比較的新しいものである
  と言われています。もともとは yomu → yomareru とやっていた
  わけですね。もちろん、これは今でも文語や口語の一部で用い
  られていますが . . .
  一段動詞と不規則動詞を「可能」の意味で「可能動詞」のように
  するやり方も意外と古く、「近世の末期、嘉永〜元治の頃にまで
  遡れる」とのことです。下のように考えると、「ら抜き言葉」も
  五段動詞による「可能動詞」も同じ原理の上に成り立っているこ
  とがわかります。

  <五段動詞>  
yomu → yom (ar) eru → yomeru
  <一段動詞>  
taberu → taber (ar) eru → tabereru
          
miru → mir (ar) eru → mireru 
  <不規則動詞>
kuru → kor (ar) eru → koreru (!)

  というわけです。

  「な〜んだ。それじゃ、『ら抜き言葉』だけ 目の敵(?)にする
  なんて不公平じゃん!」ということになるのですが、私の感覚を
  述べさせていただくと、たいていの場合「ら抜き言葉」はどうも
  居心地が悪いのです。ただし、友人や家族との会話で、
   「ねえ。あした朝早く来(こ)れる?」「うん。来れるよ!」
   「朝六時だよ。」「ええ?そんなに早く起きれないよ!」
  と、ものによっては「ら抜き」にしないとしっくりこない場合が
  あるのもまた事実です。


                  98/02/05
By Hajime  



← ← ← 「日本語の句読点は何を使う」 「日本語教師になるには」 → → →


Home

教授法講座

QUIZ

授業ノート

コラム

Information

リンク

アンケート

Gallery